< 妄想展示部屋 < TOP |
十字の杭 |
2009.3.17 |
―――昨日。初めて、彼の名前を呼んだんだ。 「お昼を過ぎた辺り、だったかな。廊下で、すれ違った時に」 高い天井を じっ と見上げながら、綱吉は微かに笑みを浮かべた。 長い時間、同じ体勢で座り続けていた為か、体の筋肉が強張っている。 綱吉は、冷たい椅子から腰を上げて、うん と大きく背伸びをした。 「無視されるだろうなぁ、なんて思いながら。声を掛けた」 ―――ドキドキしながら ね。 呟いて、胸の中の空気を全て吐き出すような、深い息をついた綱吉は、軽い呼吸の後、徐に歩き出しながら、淡々と言葉を続ける。 「呼び止めたところで、共通する話題なんて、限られているけれど。当たり障りのない話題を、咄嗟に探してたよ」 「 」やあ、お久しぶり。元気 とか。 「 」仕事、最近キツイでしょ とか。 「 」上司のご機嫌はいかが とか。 「 」今日は良いお天気だね とか。 ―――そんな世間話を、続ける言葉を、必死に探したんだ。 けど 結局、名前を呼んだ後の言葉は、どれも続かなくて、喉から出てこなくて。 歯痒くて。 苦しくて。 声が、届かなかった筈は無いのに、何の反応も見せない彼を恨めしく思って。 その背中を見送りながら、惨めな気持ちになって。 声を掛けなければ、こんな気持ちに沈まなかったのに とか。 追いかける勇気も持てない自分を、情けないなぁ とか。 慣れないことは、するべきじゃないよね とか。 ウジウジ ジメジメ 後悔した。 そんな中に、悔しさなんてモノもあって。 遠くなっていく広い背中を、苛々しながら睨みつけていたよ。 そうしたら。彼が、ずいぶん遠くまで歩いていってた彼が、急に立ち止まってさ。 「なんだテメェッ」って、大声で、ぶっきら棒に言って、振り向いたんだ。 「目を尖らせて。鼻の頭に ぐううっ って皺を寄せて。口なんて“へ”の字に曲げて。大きな足音を響かせながら、オレの目の前まで戻ってきてさ、睨み下ろして来たんだよ」 綱吉は、唐突に軽快な笑い声を上げた。 その明るい笑い声が、静謐に満ちた空間に、歪に響く。 「―――でも、ぜんっぜん怖くなんて なかった。だって、わかったから」 一頻り笑った後、綱吉は清々しい表情を浮かべた。 彼の髪が 白銀の髪が、窓から差し込む陽の色に、温かい白金色に輝いていて。 彼の顔が きれいな顔が、まるで夕暮れの茜の色を、映したように染まっていて。 彼の瞳が 刃のような瞳が、真っ暗な夜を照らす月明かりのように、柔らかくて。 それだけで、 それだけで、 それだけで、 「だから、今は……あの時は、言葉なんて、いらないと思ったんだ」 * * * 「貴方が好きです」 囁く声は、教会の講堂に染み入るように響いた。 「貴方を愛しています」 瞼を閉じた男の顔を覗き込み、心を込めて そっ と囁く。 整えられた銀糸を指に絡めて遊び、微笑を浮かべていた綱吉は、不意に真顔に戻って、辺りに視線を彷徨わせた。 「 」 答えない男の名前を、怪訝に呼んで。 横たわった男の身体を焦れたように揺さぶって。 閉じられた薄い唇を、指先でなぞり。 その指を、そろ そろ と喉へ滑らせて、厚い胸板に寄り添うように頬を寄せる。 そして、まるで迷い子の様に不安の表情を浮かべたかと思うと、綱吉は急に表情を歪めて、その肩を震わせ始めた。 温かい。 温かい。 ほら。 ほら。 ほら。 まだ、こんなに温かい。 「……あったかい」 茫洋と見開かれた綱吉の両目から、言葉にならない感情の奔流が溢れていく。 綱吉は冷え切った両手に顔を覆い隠した。 「スクアーロ」 その小刻みに震える指の隙間から滴り落ちた嗚咽が、胸の十字架をしとどに濡らしていった。 |
< 妄想展示部屋 < TOP |